岩坂彰の部屋

第33回 どくとるマンボウ後悔記

なぜこんなに汚れているのかよく分からない『どくとるマンボウ青春記』(中公文庫版、1973年刊)

北杜夫さんの訃報に接して、久しく手にすることのなかった「どくとるマンボウ」の文庫本を引っ張り出し、埃を拭って読み返してみました。一文一文の リズムにまるで違和感がなく、快く懐かしい感じ。ああ、私はこういう文章とともに育ってきたんだと、つくづく思ったのであります。

同時に、ご本人は「駄文」などとおっしゃっておられるけれども、やはり若い頃からの詩作などで言葉と格闘してきた人の文章にはかなわないな、と。

歌人斎藤茂吉の息子としての天賦の才もあるのかもしれませんが、文章の力というのは、『どくとるマンボウ青春記』のエピソードにあるような書いて書 いて書きまくる中で磨かれるということは、絶対にあると思いますね。実は私も、間違って目にしてしまうとギャッと叫んで駆け出してしまうような高校時代の 日記風ノートを密かに所持しているのですけれども、あそこまで書いてこなかった。

「私は文章が書けない」

中学・高校時代、北杜夫さんの作品は(たぶん)すべて読みました。繰り返し。太宰にも三島にも浮気せず、ひたすら北作品を(いや、これはちょっと大 げさか。SF系はかなり読みましたし、それにわれらが時代のアイドル庄司薫も忘れてはいけません)。ですから、北さんの文章のリズム感を懐かしく感じるの は当然なのです。

あの頃は、北さんのような文章は書こうと思えば書けるものだと思っていました。漱石や鴎外のようには書けなくても、マンボウや狐狸庵のようになら、 と。ところが大学に入り、同級生が仲間内の同人誌に寄稿する小説の素敵な文章を見てしまったとたん、自分の文才のなさを悟ったのです。とてもとても、逆立 ちしたって(←なんとなく北さん風)敵わないなと。

「私は文章が書けない」。それは一種のトラウマとして心の底に刻みつけられて、卒業後に編集者の道を選んだことにも影響していたように思います。自分は書けないまでも、せめて文章を人に届ける仕事に携わっていたい、と。

とはいえ、編集者だっていろいろと人様に読んでいただくものを書かなければいけないわけで、いつのまにかトラウマも薄れていったんでしょうね。編集 者から翻訳者という立場に横滑りしてしまいました。横滑りというのは、つまり、自分が書いたものではない文章を人に届ける仕事という意味では同じというこ とです。でもやっぱり訳文は自分の文章。気がつくと、人様に読んでいただく文章を日々書き続ける仕事をしていたのですね。

にもかかわらず、私は鍛錬を怠ってきたのではないか――久しぶりに『青春記』を読み返して、あらためて自分の非力さを目の前に突き付けられた気がし ます。もちろん日々の翻訳の仕事自体、ある意味で訓練でもあります。ただ、私の仕事の大きな部分を占める報道系の翻訳はかなり定型的な部分もあり、また内 容の確認が第一であることからも、文章的には鍛錬にならない、単なる作業になってしまっている面があることは否めません。

テキストの読みに関わる文章力

翻訳を勉強中のみなさん、そして翻訳家のみなさん、自分のオリジナルの文章を書いていますか? 文章力を磨くというのは、流れのよい、美しい文章を 書くということだけではありません。発想や展開や組み立ての力をつけるということです。面白い文章というのは発想や展開が面白いわけで、分かりやすい文章 というのは展開や組み立てが読者に寄り添っているものです。

そして、こういう文章力は「テキストを読み取る」うえでもとても大切なものだと思います。要するに、書いている人の気持ちが分からなくて、書かれている中身が分かるか、ということなんですが。

これは本で出版されるようなテキストに限った話ではありません。報道であろうと宣伝であろうとマニュアルであろうと論文であろうと、結局その種のテ キストをオリジナルで書けてはじめて、細かいところまでちゃんと読み取れるんじゃないでしょうか。それも日本語とソース言語の両方で(う、自分で書いてい て恐ろしい)。

ともかくもっと書かなければいけませんね。でも、念のために言い添えますと、書くために書くなんてのは本末転倒です。何か書きたいこと、書くべきこ とがあって、はじめて書けるはず。そういう意味で、私にこうして好きなことを書かせてくださっているサン・フレアさんには本当に感謝しております。

(初出 サン・フレア アカデミー e翻訳スクエア 2011年11月21日)